つぎに不呼国(ふここく)がある。 次にシハクシ国がある。 始め、死ぬと死体を埋めないで殯(かりもがり)する期間は十余日。 〜続きはページ2へどうぞ〜• 官は亦た卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。 官に伊支馬(いきま)がある。 次にタイソ国がある。
Next魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注) 自 帯方至女国万二千余里 其俗男子 皆点而文 聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害 今倭人又文身以厭水害也 「帯方から女王に至るには、万二千余里。 44 3. の原文の抜粋とその日本語訳案を示す。 活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。 晋書の編集方針は色々考え所ですが 卑弥呼らの記述に比べ 大国だったはずの大月氏の詳細が何故か分からない 陳寿の記録では二箇所ぐらい名前が出てくるだけ のも怪しいですので 晋の開祖である司馬懿を褒め称えるため 誇張された距離が使われてる というのは面白い説だと思います。 正確を期するなら烏丸鮮卑東夷伝なんですが。
Nextつぎに蘇奴国(さがなこく)がある。 紀元前2世紀末 前漢は楽浪郡という植民地を朝鮮半島北部に置き支配する 紀元前1世紀 北九州の倭国の100余りの小国が楽浪郡と交易していた 57年 奴国王の称号と金印が奴国王に与えられた。 人の背丈は三、四尺(72㎝~96㎝)で、女王国を去ること四千余里。 陳寿自身がそういう知識を持つわけがなく、歴史という過去の事実の編纂である以上、自らの勝手な想像を書き加えることはできない。 邪馬台国にしても、解釈者一人一人で答えはバラバラ、本当はどこにあったのか決着はつかない。 『』吉川弘文館〈歴史文化セレクション〉、2011年9月6日。
Next諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。 17.風俗・髪形・衣服 その風俗は、淫(みだら)でない。 その国王はみな女王に属すなり。 豚を飼っている便所の中に棄てたが、豚が口から息を吹きかけたので死ななかった。 以降は不明。 其六年,诏赐倭难升米黄幢,付郡假授。 魏略が先行することは間違いないでしょう。
Nextもちろん写真を、で、原本じゃありません) まあそういう事情なんで研究も倭人伝のみの専門、三国志全体についてはよく知らない体の研究者が多いようですから。 官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。 种禾稻、纻麻,蚕桑、缉绩,出细纻、缣绵。 そうではなく東扶余と呼ばれているのは、東扶余の方が早くから存在して、それが踏襲されてきたからではないか。 次にシバ国が有る。 百里である。 七万戸ばかりである。
Next『』筑摩書房〈ちくま文庫 お30-3〉、2009年2月10日。 というのは、マルコポーロというのは単なる私人で、帰国後の故郷における自身の地位を高めるためにあることないこと噂話を書き込んだという可能性が否定できない訳ですが、魏志倭人伝、正確に言うと『三国志魏書東夷伝倭人条』は陳寿による個人の撰であるとはいえ、れっきとした晋王朝の官人の手によるものであり、後に中国の「正史」の一部となったことからもその内容はかなり確実なものであるといえます。 船にのり、南北に(出て)市糴(米をかうこと)をしている。 魏が帯方郡を治めたのは、2年初に劉昕を帯方太守に任じ派遣し占領した後である(『三国志』魏志公孫淵伝によればがに殺されたのは8月23日)。 海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。 故に、鄭重に汝の好物を賜うなり。
Next居るところは、宮室・樓觀・城柵をおごそかに設け、常に人がいて兵で守衞している。 次にヤバ国がある。 論衡・吉験篇 北夷橐離國王侍婢有娠 王欲殺之 婢對曰有氣大如雞子從天而下我 故有娠 後産子 捐於猪溷中猪以口氣嘘之不死 復徙置馬欄中 欲使馬藉殺之 馬復以口氣嘘之不死 王疑以為天子 令其母収取奴畜之 名東明 令牧牛馬 東明善射 王恐奪其國也 欲殺之 東明走南至掩淲水 以弓撃水 魚鼈浮為橋 東明得渡魚 鼈解散 追兵不得渡因都王夫餘 「北夷の橐離(タクリ)国王の下女が妊娠した。 壱岐国)にいたる。 田を耕すも、なお食するに足らず。 始度一海。 と述べ、「韓」は朝鮮半島中部の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南海岸地域から「倭」であるとする。
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